
ことも多い。ようやくエンジンがかかる頃はそこを出ることになり、その後、喫茶店やレストランで続きをやらざるを得ないという事実は何とも悔しい。
青年の家がそれをフォローすることはできないものだろうか。泊まりの利用者もおり、管理人もいる。夜だけの利用者にもっと門戸を開放して、終わりの時間は大幅に延ばすことができれば、青年がもっと身近に利用できるものとなる。青年の家は特別な研修や宿泊を伴うものだという感覚を、この際、払拭してみてはどうだろうか。
あわせて、入過所時間や生活時間の緩和なども、あくまでも利用者を主体に対応するようなところから改善してみて欲しい。
■まじめに社会性のあるテーマを
次に、青年の家が行う主催事業などについて考えてみる。どこの青年の家でも、どうやれば若者が集まってくれるのかと、主催事業の内容に苦心している。そして、どうしてもウケを狙ったイベントものが多くなってくるという傾向を生みやすい。その気持ちはよく分かるが、派手なイベントは結局のところ商業べースでやっているプロにはかなわないし、若者も青年の家にはそんな分野は期待していないだろう。
若者は意外に社会性のあるものへのかかわりに飢えているのだ。その積極性に真正面から向かい合ってみることだ。現代社会や地域が将来にわたって要求している課題を大胆に取り入れてみてはいかがだろう。
たとえば、地域的・地球的な規模での環境問題、福祉・高齢化社会への対応、少子化に伴う異世代間の交流、地域を重視する視点、真の国際感覚の醸成、などが考えられる。また、文化活動もさらに充実すべきだ。
そんなテーマでは若者は寄ってこないよ、という反論が聞こえそうだが、員数主義にはこだわらず若者を信頼してほしい。震災ボランティアに気負いなく集まった青年を見てほしい。まさに今も、重油で汚染された北陸の海岸には毎日のように全国から青年も支援に駆け付けているのだから。
また、これらのプログラムが青年のみを対象として企画されるのではなく、青年を中心としながらも、子供、女性、高齢者、障害者、など他世代・地層とのかかわりの中での事業が組まれるともっと素晴らしいものになるだろう。さらには、若者が群がる社会現象の最前線にも敏感になり、たとえばインターネットやパソコン通信などを駆使したプログラムもどんどん取り込んでいくべきだ。
■なんと言っても職員は青年の味方に
これまで述べた注文や期待がどこまで実現するかは、最終的に社会教育の施策に負うところも多い。しかし、青年の家の職員がどんな姿勢で仕事に、そして青年に臨んでいくのかによって大きく左右されるのではないだろうか。
まず、青年を信頼して彼らに向き合うのか、自分も住民の一人としてその地域に生きようとする意志があるのか、そんな姿勢は自ずと利用者に伝わってくるものだ。巷には異動で3年くらい我慢すればいいのだから、などという感覚もあるやに聞くが、実に不幸なことだ。やはり青年の家には社会教育の専門職員を配慮し、彼らは職員になるにあたって青年活動と十分なふれあいを経験して欲しい。そして、青年を「訓練」するのではなく、成長、発達の保証、促進、
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